本日は籔内佐斗司氏のSNSより・・・・・
日本のことば
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司
文化とは、ことばと文字が具体化したものの総体です。
それは、文学や文芸などの形式で物語化・Narrativationされ、また演劇や美術などの藝術化・Artificationされて可視化・Visualizationし、初めて伝承されるものです。
そして文化には、自分たちの歴史のなかから生まれたものと、他の文化や文明から受容したものが混在しています。ですから、わが国のように多様な外来文化を波状的に受容してきた島国では、日本を知るために、つねに文化の原典を検証する作業が大切です。
そして、ことばはもちろん、伝承された物語や文芸、芸能をないがしろにすると、固有の文化はすぐに衰退し、新しい文化に侵食されますから、ことばはほんとうに大切にしたいものです。
最近発表された国際連携による言語学研究によると、原始日本語の源流は、9000年ほど前の今の中国東北地区の西遼河あたりの農耕民のことばの可能性が指摘されました。
しかし、紀元前14000年ころから始まったといわれる縄文時代前期の言葉との連環は不明なままです。
一方、縄文晩期から弥生初期の時期には、黄河流域や長江流域のひとびとが断続的に朝鮮半島に移住し、その一部が日本列島にも渡ってきたと考えられます。
古事記神話の高天原とは、そのような遠い遠い祖先の原郷の記憶であったのかも知れません。
古代朝鮮半島南部には、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)およびその後裔である三国(百済、高句麗、新羅)や最南端の伽耶諸国(狗邪韓国、加羅、金官、任那など)が割拠しました。
そのうち、北九州と密接な関係にあり、三国によって押し出されるように滅亡した伽耶諸国からは多くの知識人や工人が倭に渡来しました。
彼らは、後漢の霊帝(2C)の子孫を自認して漢人(あやひと)と称し、朝廷の実務に携わりました。
彼らのうち、早くに飛鳥地方に定住した一族は、東漢氏(やまとのあやうじ)として、当時の大和朝廷の近代化に大きく貢献したと考えられます。
また遅れて渡来し河内湖沿岸に定住した一族である西漢氏(かわちのあやうじ)は、応神天皇の頃に楽浪郡から百済を経て漢字をもたらしたといわれる王仁(わに)の後裔を自称し、事務官僚の史(ふひと)として朝廷に仕えました。
中国大陸に出自を求めて権威付けている点で、秦の始皇帝の圧政を逃れて、辰韓・新羅に移住した一族の後裔を称する職能民集団・秦氏と似ています。
そして古墳時代後期(5C)に、漢字の音を用いて倭語を表現するためにあみだされたのが万葉仮名ですが、やがてそれをもとに流麗な平仮名が生まれ、平安時代になって漢字と平仮名が交じった「漢字仮名交じり」の文体が普及しました。
このように、日本語は断続的にもたらされた海外の言葉を取り入れつつ、それまでの言葉と融合させてきた歴史があります。
現代は、未曾有の外来語が押し寄せている時代です。これを賢く受容しつつ、しかも日本語の美しさをどのように維持し創造するか、民族としての大きな問題です。
日本の国文学者であり民俗学者・思想家の折口信夫(1887−1953)の文章は、活字になったときの見た目もたいへん柔らかく美しいことで知られます。
それは、「ようろっぱ、あめりか、えるされむ、おぞん」のように外来語もひらがな、即ち「やまとことば」で表記しているからです。
昨今の安易で怪しげなカタカナ語の洪水を思うとき、詩集『現代襤褸集』に書かれた彼のことばへの思いは、心に重く響きます。
さやかなり日本のことば- わが心 こゝにいき わが命 これに璽(おして)す ちなみに、本稿では、「カタカナ」という言葉以外にカタカナ語を用いていないことにお気づきになりましたか?
図版;折口信夫
*画像・内容は籔内佐斗司氏よりお借りしました。
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