おはようございます。毎日暑い日が続きます。
まだ夏前ですので、今から体力をつけておかないと先が思いやられます。
春日井展のお問い合わせを頂いております。ありがとうございます。
新作の”あなたへ”も展示致します。現品を見てから決めたいな!という方がいらっしゃいましたら是非ご確認くださいませ。
またエンジェルシリーズやビンテージな作品・そして原画も多数展示致します。
そんな中、本日は前田青邨です。
岐阜県中津川のお生まれです。
青邨は歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示しました。その中でも武者絵における鎧兜の精密な描写は、ことに有名で1955年(昭和30年)に文化勲章を受章するなど、院展を代表する画家として活躍しました。晩年には法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わり、その遺志は青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。
岐阜県中津川市に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があります。青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定されました。
- 1885年(明治18年)1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現中津川市)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、母たかの次男だった。本名、廉造といった。
- 1898年(明治31年) 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。
- 1901年(明治34年) 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門
- 1902年(明治35年) 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰うことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。
- 1907年(明治40年) 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。
- 1911年(明治44年) 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹すゑ(荻江露友)と結婚。
- 1912年(明治45年) 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。
- 1914年(大正3年) 再興された日本美術院の同人となる
- 1915年(大正4年) 朝鮮旅行
- 1918年(大正7年) 日本美術院評議員に推挙される
- 1919年(大正8年) 中華民国へ旅行
- 1922年(大正11年) 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。
- 1923年(大正12年) 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館が所蔵)
- 1930年(昭和5年) 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞
- 1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作
- 1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員に推挙される
- 1943年(昭和18年) 満洲・支那旅行
- 1944年(昭和19年)7月1日 帝室技芸員に推挙される[1]。
- 1950年(昭和25年) 文化財保護委員会専門審議会委員に就任
- 1951年(昭和26年) 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受けることとなる
- 1955年(昭和30年) 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる
- 1956年(昭和31年) 日本美術家連盟会長に就任
- 1957年(昭和32年) 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる
- 1958年(昭和33年) 日本美術院常務理事
- 1959年(昭和34年) 国立近代美術館評議員
- 1960年(昭和35年) 訪中日本画家代表団団長
- 1962年(昭和37年) 東京芸大名誉教授
- 1964年(昭和39年) 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成
- 1967年(昭和42年) 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任
- 1970年(昭和45年) 皇居新宮殿石橋の間に1955年(昭和30年)に謹作した壁画「石橋」を加筆。新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
- 1973年(昭和48年) 高松塚古墳壁画模写事業総監修者
- 1974年(昭和49年) ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成
- 1977年(昭和52年) 10月27日、逝去(92歳)、贈従三位
前田青邨の作品・お問い合わせは
090-7681-7598 田村までお気軽にどうぞ!
愛知県,名古屋市,展示会,美術品,絵画,版画,陶器,木彫,ブロンズ,前田青邨,ガラス工芸品,買取,オークション,原画,委託販売,彫刻,美術品買取,版画買取,絵画買取,田村和彦,トイプードル,原画価格,前田青邨価格,美術館,画廊,前田青邨,展示会